千宗旦(せんそうたん)

千宗旦

1578〜1658 (享年80才)

時代 安土桃山〜江戸前期

職業 家元

祖父 千利休

父 小庵

子 三千家の開祖

主君 なし

千宗旦は関ヶ原や大阪の陣などの大きな戦のあった、安土桃山から江戸初期を生き抜いた茶人です。

千利休の孫であり、
三千家の開祖である3人の父親で、
茶の湯の歴史には欠かせない1人。

現在でも11月19日は宗旦忌で
各地で茶事が行われています。

9才、大徳寺に入り三玄院で少年時代を過ごす

1578年2代家元の小庵と母・喜室宗桂(きっしつそうけい)の間に誕生しました。

家督争いを避けたいという祖父利休の希望から、9才で大徳寺の春屋宗園(しゅんおくそうえん)のもとで修行しました。

利休が秀吉から切腹を命じられる

1591年に利休は切腹をした当時、宗旦はまだ禅僧として修行をしていました。

宗旦の父・小庵はその後、利休七哲の1人である蒲生氏郷(がもううじさと)に庇護されて会津(現・福島)で暮らしました。

16才、秀吉より長持三竿分の茶道具をたまわる

1594年に小庵が秀吉に許されて、京都に戻り千家を再興します。

その際に利休遺品の茶道具と茶室・不審庵が秀吉から返却されました。

宗旦も小庵の希望により、禅僧から俗世にもどり茶の湯にはげみます。秀吉からは長持三竿分の茶道具をたまわり、将来を期待されました。

30才、記録上で最初の茶会をする

宗旦の最初の茶会は1608年で松屋会記にしるされています。楽焼茶碗(当時の名は聚楽焼)を使いました。

48才、1畳半の茶室・不審庵を建てる

1648年に宗旦は1畳台目の茶室を建てて、不審庵と名付けます。

利休もかつて床間のある1畳台目をたてましたが、秀吉が気にくわず、2畳の茶室に作りかえられています。

宗旦の1畳台目は究極までそぎ落としたもので、利休とちがい、床の間がないのが最大の特徴です。

子の江岑宗左(こうしんそうさ/後の表千家)には、「掛物も花もいらぬ」と宗旦は語っていたようです。

そのほか、平らな天井はつくらず、化粧屋根裏にしたてたり、狭さを感じさせない工夫が随所に見られます。

この不審庵は子の江岑宗左(こうしんそうさ)に譲り、後に3畳台目に建てかえられました。

わび茶に傾倒する

宗旦が生きた江戸初期は、大阪の陣という大きな戦乱が終わり、公家中心の雅な寛永文化が花ひらいた時代でした。

茶の湯では「姫宗和」や「綺麗さび」など華やかなものが盛り上がるなか、宗旦は反対に清貧なわび茶を突きつめていきます。

祖父の利休が切腹したことが原因か、徳川や諸大名からの茶の湯師範の誘いを断りながら、孤高のわび茶を極めました。

その清貧ながらも千家を守る姿に、ついには「乞食宗旦」と名前がついたほどでした。

64才、子供たちの仕官のために奔走する

大名に仕官せず、自分の茶道具を売りながらも、わび茶を極めた宗旦でしたが、3人の子供は大名家へ仕官させました。

この3人が後の三千家につながります。

武者子路千家 開祖
次男の一翁宗守(いちおうそうしゅ)

京都の塗師に弟子入りした後
高松藩の松平家に仕官。

表千家 開祖
三男は江岑宗左(こうしんそうさ)

唐津や高松に出向いたのち
和歌山藩の徳川家に仕官。

裏千家 開祖
四男の仙叟宗室(せんそうそうしつ)

一度は野間玄琢の元で医師をめざしましたが、
宗旦の元で茶の湯にはげみ、金沢藩の前田家に仕官。

長男の関翁宗拙は金沢藩の前田家に仕官するも、すぐにやめ、父の宗旦に勘当されます。
晩年は和解し、茶事を多く行ったようです。

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